抽象化していくことば
日本語には、名詞の区分が少ないと言われています。ラテン系の原語のように、男性名詞・女性名詞の区別、複数形・単数形の区別が無いことが特徴のようにいわれることもあります。確かに、定冠詞や語末の変化などはないに等しいのです。国語の辞書を見ても、「名」と名詞であることを明示しているのはまだしも、名詞は品詞をことさらあげずに省略する辞書も多いのが実情です。
ところが、ワープロなどのソフトに必ず付いている「かな漢字変換ソフト」の辞書を見ると、名詞にさまざまな区別を付けていることが分かります。
例えばあるソフトでは、名詞(一般名詞)、名詞サ変(サ変動詞の「する」を付けられる名詞)、名詞形容動詞(「○○な」の形をとれる名詞)、さらにサ変と形容動詞的な形を両方とれるもの、固有名詞などに分けています。固有名詞はさらに、一般・組織(会社など)・姓・名・外国人の名前などに細分しています。
この分け方は、変換効率を上げるための工夫で、国語辞典では必要ない情報かもしれません。
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私たちは、日常生活では、何の苦労もなく使い分けているのですが、アイウエオ順に並べ替えてみると、このような分類も必要なことがあると感じられます。
名前のうち、姓は漢字の制限はありませんが、名のほうは戸籍の上では使えない漢字があります。いわゆる人名用漢字と常用漢字に含まれている漢字だけを使うことになっています(読みは別です)。
使い方で分けた名詞の分類には、抽象名詞、具体名詞という分け方もあります。実体があるものを示す名詞と、概念的なものを示す名詞の区分です。
どこで線を引くか、あいまいな点が残りますが、文の組み立てでは必要な情報になります。日本語を習っている外国人の中には、この区別が難しいという人もいます。
抽象的なものごとと具体的なものとの区別は簡単に付きそうですが、場合によると難しいこともあります。また、表現の中には擬人化法というものもあり、人と物の区別も一筋縄ではいかないこともあります。
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しかし、最近は、「勇気」「元気」「やさしさ」「女らしさ」などを目の前に厳然とある物体のように扱う言い方が増えてきました。
いわく、「勇気をあげる」「元気をもらった」「やさしさを分け与える」「女らしさをプレゼント」などの表現です。
これまでも、抽象名詞を具体名詞のように扱う表現はありましたが、どちらかというと破格、あるいは気取った表現として、目立たせるための表現法であったように思われます。
現在は、抽象的な「勇気」「元気」などが目に見えるものであるかのような表現が一般化してきたという違いがあります。
ことばの使い方は、時代により変わってきますが、形容詞や副詞は変化が早く、名詞は比較的遅いと思われてきました。
10年以上前には、名詞の中でも形容動詞的な使い方がひんしゅくを買った「ニュースな」などが問題になりました。注意してみると、サ変動詞が付く名詞も変化を見せ始めています。
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これらの変化は、ことばを使う私たちの考えが変わってきたためだと考えられます。抽象名詞の「抽象」とは、場合場合により違うものを、何か一つの共通項でくくって考えるためのものです。勇気や元気は人により違うのですが、まとめればそういう「性質」があるということです。
一方の具体名詞は、「性質」ではなく「物」であり、個々別々の違いはあっても非常に似たものであることが多いものです。
抽象的な事柄を、あたかもそこにある物のように扱うのは便利な表現です。
しかし、その便利さの代わりに、じっくりと違いを考える、あるいは場合場合により形容や表現形式そのものを考える手間を省いてしまうことにつながるおそれはないでしょうか。
遊園地の「お化け屋敷」に入る「勇気」と、愛する人々を守る「勇気」は相当にかけ離れていると思います。具体名詞のように扱うと、「勇気」は「勇気」にしか過ぎなくなりはしないでしょうか。簡潔な表現と簡単に思いつく表現は違います。
「ちょっとおかしい表現かな?」と感じたときには、ことばの裏側にある心理や、なぜその表現を選んだのかにスポットを当てると、時代を考えることにつながるかもしれません。
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